昭和47年5月1日 月次祭
                     中村良一


只今、お月次祭を終わらせて頂いて、共励殿に下がらせていただきましたら、三橋先生が、すぐ出てまいりまして、只今、ご祭事中に、何時も先生が、先唱を致します。大祓いの先唱を致します。その半ばに、かくならばと言う、中の、そこの所が、あら、こら忘れとるとじゃなかじゃろかと言うほど、ちょっと途切れましたね。その事を、お詫びに出てくるんです。実は、先生、今日、娘が、敏江さんと言いますが、嫁っておる家で、大きなお商売をしておられますから、四階建てなんです。その、四階建てが住まいになっている。それで、ようやく誕生を迎えたばっかりの子供がおりますから。あけてから、この位ばっかりの廊下があるところが、何にもない。やはり、ここは、どうかしなきゃ、子供がここから、這い出て行って落ちでもするなら大変だからと、言う口のうちに、今日は、子供が、四階の、そこへ出とったそうです。もう、それこそもう、心臓が止まるようにびっくりした。その事を、お母さんの所へ、こんな、今日は、おかげを頂いたからと言うてその、知らせがあっとったそうでございます。それをその、ご祭典中に、ふっと思い出した。もう、本当にもう、改めてまた、びっくりしてですね。あんまり、有難うございます有難うございますと言いよったら、ちゃんと、はっはは、かくならばを忘れとったち言う。しかし本当、聞かせて頂いて、本当に、ヒヤッとする話でございますよね。四階建て、建てるにも、そんな建て方はですね。そるきんち言うて、手摺を、やっぱ、作ったそうですけれども、こんなに目が荒いけん、子供はつん漏ってしまうわけです。はっはは、ね。で、そん時、来がけにも、どっか、小郡の所で、自動車の、電車に接触した方が、即死されたと言う話を聞いて、そん事や、あの事を思うてですね。もう本当に、今日は、ほんなら、孫が、そういう事であったら、どういう事になっとっただろうかと思うたらもう、本当に、改めて、有難うございます、有難うございますと言いよる間に、かくならばを忘れとったち。あっははは、(笑い)
昨日一昨日でしたかね、昨日が、菊栄会の信心実習会でございました。その前の日でしたから。会長の正義さんが、ちょうど、もう、ここの終うてしもうてから、そこの御用を、親子三人で、あの、西岡さんと三人で、させてもらいよったら、やって参りましてからね、もう、それこそ、広大なおかげを頂いたと言うて、やってまいりました。と言うのは、まぁご承知のように、土木関係の仕事を致しておりますから、土取りをやっておるわけですね。ダンプを使ったりトラックを使ったりして。それがその、採石場で、ちょうど、六十メートルからの山が崩れましてね。しかもそれが、三メートルの厚さでですね。二反中に広がるほどしの山崩れであったそうです。もう、とにかく、想像がつきませんですね。もう、あっとも、すーとも言う暇がない。何時もここに来ておる、運転手の方が、ここまで埋かった。ね。もう、何時も、私は、あの車が、そこにあって、もう、なんかの事でですね。その日だけは、ちょっとよけた瞬間だったそうです。ですから、その後から、すーっと入ってきた車がやられた。そして、その車も、どけあるじゃら分からんごと、深く埋かってしまってね。とうと、そん一人は、まぁ、犠牲者が出たと言うことです。まそりゃ、本当のことは大層な事だけれどもです。なら、自分ところの、まぁ、車じゃなかったけん良かったち言う訳じゃないですけれども。本当に、信心させて頂く者と、頂かない者は、親のある子と、無い子ほど違うと言う御教えがございますけれどもね。本当に、御守護を受けておる、受けておらないという事を、そこに感じんわけには参りませんですね。本当に、そういうわけで、昨日は、有難い信心実習会も出来たわけ。その前日でございましたから、ね。
そこで私は、思わせて頂くのですけれども、信心させて頂く者と、頂かない者が、親のある子と、無い子ほどの違いという事がです。そういう、災難な事をよける。または、大難を小難、小難を無難と、おかげを頂くと言うだけでは、私は、足りないと、信心させて頂く者は。ね。いよいよ、私は、おかげを頂いていけれる。
只今、御祈念前に、ちょっと、こう座らせて頂いたら、今月のおかげの泉が出来ておる。そこに持ってきております。三十三号です。ちょっと開かせて頂きましたら、皆さん、どうですか。あの、おかげの泉が、まぁだじゃろかと、こう待ち遠しい様な気が致しませんですか。もう、来たら、ちょいと読んでみなけりゃおられないと言う気がしませんか。こらもう、私が話したことで、しかも、何回も読んどるんです。まぁ、あちらに参ります前に校正がありますから、そん時も、一遍読んどるとです。それでも、やっぱりですね、それでもやはり読んでみたい。ね。それがあの、やはりあの、おかげを受けるという事は、そういう様なね、心の状態の時で無からなければ、ね。例えば、お月次祭が楽しみである。朝参りが楽しみである。お参りが楽しみといったようなね。そういう私は、信心が育っていかれなければならんと思うわけです。
それを私、ちょっと、半ページも、ちょっとの時間ですから、表へ参ります。見せて頂きましたら、とかくに信心は根を肥やせと言う御理解でした。とかくに信心は根を肥やせ、ね。常日頃、ね。肥やしは出来ておれば、ひとりでに、物が出来るようなものじゃという御理解に基づいての、それが、今日、このおかげの泉の内容でございます。もう、何十回となしに、同じ御理解を頂いてますけれども。この時の御理解は、どんな御理解だっただろうかと思うて、まぁ、書き出したところを、ちょっと読ませて頂きましたら、根を肥やせという事は、どういう事であろうかというのであります。とかくに信心は根を肥やせと。根を肥やせという事は、どういう事であろうかと。これだけは、絶対、間違いがない根を肥やせという事であろうと言うのを、確か、三つの例を挙げて、説いてあるようでございます。そこんところまで読んだ。ね。
第一は、何が根かというと、いわゆる、天地が根である。いわゆる、天地と、私共との繋がり、その大元、大根本のところ、ね。いうならば、私共を、小神格であるならば、大神格である。氏子であるならば、親神様の所である。これが、一番の、いうならば、根であるという事である。次には、私共の根。それは、親であり、先祖であると言うのです。次の根は、いわゆる、心であるという事。この三つ。まぁだ、他にも、色々、根というのはありましょう。しかし、大きな根の、この三つの根というのは、これがその、まぁ、根だと言うところが書いてあるところを見せていただいた。ね。信心させて頂く者と、でない者は、親のある子と、無い子ほどの違い。ね。何時も、親の懐のなかにあるようなおかげを頂いておるということ。ね。それは、神様のお守り、御守護というものはです。世界中の氏子、一人ひとりの上にあっているのでございましょうけれども。それを、受け止めれるのは、やはり、信心の心であり、日頃の信心である。先祖父の、私のご先祖と、見えられてから、帰られたからでした。三人で、本当に、日頃の信心が、こげん時もの言うねと言うて、お話したことでした。ね。
大難を小難、小難を無難。本当に神様の、そのようなおかげを、それこそ、身の毛もよだつような、ヒヤッとするような時にです。本当に、ちょっと遅れておったら、もう、四階から落ちとったかも分らないと言うようなです、おかげの中に、いわゆる、御守護の中にあるという事をです、感じる。確かに、親のある子と、ない子ほどの違いを、そこに感ずるけれども。そういう事だけが、親のある子と、無い子ほどの違いであってはならない。ね。私は、どうでも、それこそ、ひとりでに物が出来るようになるという事。信心を頂いておると、ひとりでに、物が出来てくるようになる。ね。だから、信心というのは、そういう、根肥しの為に、信心が、何時もなされておかなければならないという事。ね。お願いをして、おかげを頂く。これもやはり、信心しなければ頂けないのである。または、知らず知らずの中に、信心をしておれば、目に見えるおかげより、目に見えぬおかげのほうが多いと仰せられる、そういうおかげ。ね。または、もう、目の前に見せて頂くように、ね。それこそ、神様の御守護を受けておらなければ出来ることじゃないほどしの、間一髪、昨日の正義さんところの場合でもそうです。そこが、私共の泥を取る場だと言うのです。そこが。その後に埋まっとる、自動車が。それが、ちょっと、自分の所が、一足先に出たために、跡からすっとは入って来たのが、そこであり。もう、本当に紙一重であったと、こう言うのです。ね。本当に、おかげを、そこに有難いと分らせて貰うんですけれども。それだけのおかげではならない。
今日、今月、私共が、皆さんも頂かれることの、その、おかげの泉に出ております、ね。ひとりでに物が出来るようなものであろうと、こう仰る。その、ひとりでにものができるようなおかげをです。頂くことの為に、ね。根を大事にしなければならないという事。その根の絶対、それだけは間違いがない。これはもう、大きな根。小さい根が沢山ありましょう。根というたら、幾らもあります。けども、この三つだけは、絶対のものだと言うのは、先ず、なんと言うても、天地である。ね。同時に、親であり、先祖である。同時に、自分自身の心が根である。ね。食物は、人の命のためにと仰るのでございますから、ね。食物なども、やはり、これは命の根です。だから、食物をお粗末にしてはならない。
今朝からの御理解にも、それがございました。ね。三宝様を踏むな。三宝様を踏むと目がつぶれると言うところ。ね。三宝様とは、穀物の意だと、ね。何故、その穀物だけが、そのように大事かというと、人間の命の根なのだから、食べ物が。だから、それは、押し頂く思いで無からなければいけないと言うのである。ね。そこで、ほんなら、私共がです。命の元であるのが食物でありますように、ほんなら、心を育てるものは、何かというと、心を、いよいよ、健全なもの、いよいよ、豊かなもの、限りなく美しゅうしてくれる働きと言うものは、私共の上に起きてくる、日々、刻々、私共の周辺に起きてくる、いわゆる、御事柄であると言うのです。ね。ま、場合は、それが、難儀という形になって現れてくる場合もあります。けれども、その難儀の実態というものを、よくよく見せていただきますと、神愛以外には無いという事が分かるのです。ね。
今日は、ちょうど、四時の御祈念にあわせて、日田の綾部さんのお父さんに当たられる方の発ち日である。それで、ちょっと、ご挨拶だけして頂きたいという事でございましたから、四時の御祈念にあわせて、おかげを頂かせて貰うた。私が頂いたこと、ちょうど、そん時に、久留米の佐田さんが、お参りになっておられる。今度、あちらは、改式がございますので、見事なあの、ご仏壇を拝んでおられました。そらもう、見事なもんでした。それが、おかげで、親戚に貰うてもらう事になって、それも安心、中の仏様達が五十万がたある。あっはは、昔のその、立派な仏様が、あの、してあったですからね。それもみんな、貰うて頂くという事になって、大変有難いと言う。それで、中に、お位牌さん、沢山の掛け物やらなんかが掛かっておりますから、それを、ここへ、今日は持って見えた。ここで処分して頂きたいと、こう言う訳です。ちょうどあの、一緒でございましたから、その、綾部さんの所の御霊様へのご挨拶も、一緒に、後ろで拝んでおられた。ね。そして、頂かれることがね。三益愛子と頂かれた。三益愛子というのは、映画女優におりますよね。まぁ、その人の名前なんですけれども、私は、三益愛子という事は、ね。益々という事だと思いましたね。益すが三つになるね。益々、おかげを頂く。益々、神の愛を受けて行こう、受け止めて行けれると言う事だと思いました。ね。
今晩の御理解で言うとです、先ほど、御直会の時でした。もう本当に、おかげを頂いて、一年、自分の信心を、一年前の今日の事を思うてみてです。有難いと思うて、さっさと、合楽通いをしよったけれども、自分が助かる事をです、ね。御霊様、先祖様まで、助かるという様なことなんか、まぁだ、半信半疑で分らなかった。ね。けれども、いよいよ、自分が助かってくるとです。これは、自分の助かりと同時に、それこそ、根であるところの、お父さんの御霊、先祖が助かってもらわんならん。それをもう、実感的にです、ね。今日、朝の御祈念にも参ってきておられますけれども、また、わざわざ、それこそ、威儀を正して、お父さんのお好きなものでもお供えさせて頂いて、ご挨拶をしていただこうと。いわゆる、根を大事にする。いわゆる、今日の御理解で言うと、ね。根を肥やすという事になる。その根を肥やすという事は、ほんなら、どういう事になるかというと、具体的に、益々繁盛のおかげが受けられると言う。益々、神様の愛を、いやが上にも受けていくことが出来ると言うのが、私は、三益愛子であると言うことであると思う。これは、佐田さんところの、ご自分自身の所でもあろうかと、私は思うた。ね。おかげで、いわゆる、本式に改式のおかげを頂くことが出来る。ね。
お爺さんが、ずいぶん長く、休んでおられますけれども、まぁ、幻覚でしょうか。ね、普通で言うならば、人が、そこにいない人が、居るように見えるわけなんですね。それが、ここ、二三日はですね。もうその、御霊様が見える。もう、如何にもですね、それはまぁ、かいつまんで申しますと、その、改式をしていただくことの喜び、楽しみをですね、現しておるという。今までは、また、じっちゃまが、あげなこつ言いよりなさると言ったようなことじゃったけども、ここ、二三日はね、それが、もう、いよいよ改式と腹が決まって、お寺さんにも、その事を継げさせて頂いた。ご仏壇も、親戚に貰うて貰う事になった。今度の宅祭りにあわせて、改式祭のお祭りも使えさせていただこうと言う段取りが、段々、進んでまいりよりましたら、もう、御霊様がね。自分達には分らんけれども、いわゆる、朦朧としておられるお爺ちゃんが、いわゆる、幻覚といや、幻覚かも知れません。幻かも知れません。けれども、ほら、誰々が来とるじゃないの、早くあの、布団を着せて上げなさいとか。何かほら、上げなさいとか。それを聞かせて頂いておると、本当に、御霊様までが、生き生きとして見えたと言うものを感じますと言うておられます。ね。根を肥やした。だから、目が生き生きとしてきた、ね。そこで、益々愛子であります。ね。いわゆる、三益愛子です。神様の表現ちゃ、面白いですね、それでも。ね。それを、ほんなら、自分ところと、その、ちょうど、綾部さんところのお祭りに引っ掛けてくださっておる。ね。自分が助かって行きよるという事はです。このまま、御霊様も、先祖様も助かって貰わねばならんという、言うならば、願いが、やむにやまれんところに育ってきた。そして、綾部さんじゃないですけれども、一年経たせていただいて、今日です。いわゆる、自分の信心が、これほど、進んだという事が感じられるという訳なんです。ね。
信心が、段々、ね。やはり、進んでいかなければなりません。そして、いよいよ、天地に対するところの還元、ね。天地に還すという事。恐らく、そのおかげの泉に出てくると思うのですけれども。お百姓さんが、例えば、作柄ですね。稲を作るならば、その藁です、その藁だけは、全部、大地に還せと。こら、ある篤農の方が言っておる。それだけ肥やしていけば、後の肥料は要らんと言われるほどじゃそうですね。いわゆる、決して、ね。実まで、そこに、大地に還せとは言わんて、天地は。けども、その、殻だけぐらいは、還していけ。ね。そこに、いわゆる、限りない、年々歳々、そこから、いわば、お米の収穫があると言うことなんです。ね。ですから、天地に対する還元というもの、さぁ、家屋敷売ってから、その、お供えせろという様な事じゃ決してないという事なんです。ね。ただ、有難い、勿体ないの伴うた、本当に、お礼の印に、または、ある場合には、自分の身を削ってでもという様な、私は、この還元。天地に還元すると言うのは、ほんなら、裏の口に、ちょいとお金を放からかしとりゃ何にもならんですから、ね。その金を、本当に、世の中の明るうなることの為に、または、人が助かることの為に使われるようなところへ、還元する事がです。まぁ、いうならば、お供えをさせて貰う。けども、まぁ、お供えしたっちゃ良かばってんから、もう、お供えすると、すぐ、あっちの奥さんの着物が立派になるけんで、お供えしゅうごつなかち言う人がある。こりゃ、あるけども、ここじゃなかですよ。ここではもう、布一寸買わんとじゃけん、絶対。はっはは、ね。米一粒買わんというのだから。さぁ、今日はいっちょ、お供えもん多かったけん肉なっとん買うちけち言うこつは、一遍でん、まだなかです。はっはは、所がですね、ちょっとばっかり、お供えがあると、もう、第一、食べ物が変わってくる。ね。もう、この頃は、あっちの奥さんな、偉いよか洋服ば作ってござるち言うような風に変わってくるけん、お供えしゅうごつなかごつなってくる。だから、これは、天地の還元には、なりよらん訳です。ね。お供えをさせて頂く者が、一生懸命なら、ね。それを取り次がせて貰う者も、一生懸命。それも、使わせて頂く者も、また、一生懸命でなからにゃならんというのは、私の、お供えに対するところの考え方なんです。ね。御供えする者も、一生懸命になる。それを取り次がせて頂く者も、一生懸命。ね。それをまた、使わせて頂く者も、・・・。もう、お父さん、あなたは、お父さんち言いませんね、この頃、親先生ち言う、家内は。親先生、あーたばっかりは、勝手に出てきてから、男のくせに、あっちこっち開けちからち、時々言われますからね。やっぱ、見らにゃおられんです。お粗末になっとるどま、おらんじゃろうかち言うて。ね。という様にです。使わせて頂く者も一生懸命。だから、まぁ、皆さんが、合楽にならば、幾ら、打ち込まれたっちゃ、それは必ず、天地に対するところの、還元になることを、私は、言うてはばからない。ね。本当に、お互いがですね、信心になって行くという事をね、神様が、本当に、どうぞ、信心になってくれよと、頼んでおられるのですからね。
私は、今日、今、お待ち理前に、福岡のあの、池田さんが参加されますのに、娘さんが、お夢を頂いた。それは、親先生が、御結界に座っておられるのが、下がってこられる。ね。そして、あの、恵子さん、こっち向きなさいち言うてから、こっち向かせといてから、そこで、もう、親先生が、深々と頭を下げらっしゃった。勿体のうして応えんと言う、お夢じゃったげな。どういうこつだろうか。どうぞ、いっちょ、お供えばして下さいち。そげなこつじゃなかですよね、きっと。はっははは、(笑い)ね。
私は、椛目の時代に、私は、なんか具合が悪うて休んどった。そしたら、お夢を頂いておる。ちょうど、金光様が、こちらの御結界に座っておられて、私が、西岡さんが座っとるところに座っとると、金光様は、こっから、あそこまで、降りて見えた。そして、一間ばっかり、手前の所に座られて、そして、座ったまま、私のほうに、こうやって向きを変えられた。何をなさるだろうかと思ったら、そこでもう、手を突いて頭を下げられた。はぁ、もう、勿体ないで、声あげて、おいおい泣きよりました。あんまり勿体ないで。そしたら、母が、襖の後ろに居りましたから、先生、どうしたの、どうしたのと言うて、やってきて、はっと目が覚めた。お夢である。ね。あの時分、それこそもう、教会として、あの、認められない。色んな運動があっとったけれども、その、まぁ、言うならば、合楽の一番修行の時代でございました訳ですわね。ね。ですから、もう、わざわざ、金光様の教会こつが要りますもんか。新しい宗教、ね。言うなら、その、新しい宗教を起こされたらどうですかと。親先生が、いわば、教主様。そしてその、金光教ことは要らんけんで、銀光教でも、えっへ、何でも良いけん、いわば、そげんしなさいと、いわゆる、伊万里の竹内先生辺りは、その事をしきりに主張されました。私共は、金光教の必要はありませんと。もう、私共は、親先生を拝んどるとだから、もう、そげな必要は無いから。そげん、御本部のほうでも喧しゅう、色々、取り沙汰されるぐらいならば、そうなさいと言われましたけれどもです。やっぱり、金光様のお言葉がある。御道の教師としておかげを受けられたが良かろうと、十何年前に頂いておった事が、私の、心のなかにあるから。もう、それで、腹が、何時も決まっておった。そういう半ば、最中なんです。ね。金光様が、いわゆる、まぁだ、信者、教師の資格は持っておらんけれども、ね。まぁ、それこそ、深々と頭を下げられて、しばらく辛抱して下さい、大坪さんと。ね。または、あなたが信心して、おかげ下さることによって、沢山の人が助かるのですからと、金光様が、私に、頭を下げておられる。天地の親神様が、どうぞ、氏子信心して、おかげをくれよと言うのは、そういう事なんです。
私は恵子さんのその、恵子さんのお届けを聞いてから、もう、胸が一杯になった。これは、恵子さん自身が、しゃっち、おかげ受けんならん事があるとですよ、ね。ですからね。その為には、恵子さん、しっかり信心して、おかげ受けてくれよという事なんです。ね。おかげを受けると、ね。だから、そのおかげを受けると言う事がです。確かに、信心する者と、しない者は、親のある子と、無い子ほどの違いがある事を感じますけれども、ね。それこそ、無い命を助けて頂いたと、ね。大難を小難で、お祭り替えを頂いたという様なおかげもです。本当に、おかげと。ただもう、腑が良かったつだけではもう、済まされんようなです。その、おかげも受けるけれども、そういうおかげであってはならない。おかげというものが、もっともっと、広い、深いものでなからなければならない。それも、そのなかに、色々今日は、それを、一人でに物が出来るようなおかげの頂けれる所まで、お互い、おかげを受けようと言うのである。ひとりでに、おかげが出来ると言うことには、そんなら、先ず、根を肥やせという事である。根を肥やしておけば、ね。日頃、肥しができておればです、ね。ひとりでに物が出来る。ほんなら、根を肥やすという事は、どういう事か、その、三つを、今日は、四つを今日は申しましたですね。
天地に還元するという事。これが、天地に対するところの、根を肥やすことである。親、先祖を大事にするという事が、また、これは、家の根である。心を肥やすという事。ね。自分の心が、いよいよ、豊かに、ね。いよいよ、有難いものになっていかなければならん。そこで、天地の根を肥やすという事は、還元という事。ね。自分の心を肥やすという事は、ね。一切を、神様の御働きである、神愛の現れであるとして、それを、成り行きを、いよいよ、大事にさせて貰うて、その成り行きそのものをです、ね。分れば分るほど、神様の、もうそれこそ、微妙なまでの働きの内容にある事柄なのですから。それは、腹の立つ問題、情けない問題、損になるような問題もありましょうけれども。それをです、私共が、本気で、自分の心を、いよいよ、豊かにすることの為に、いわゆる、心の根を、いよいよ、豊かにすることの為に頂くと言う。それが、心の根を肥やすという事である。ね。先祖を大事にするという事。そういう、様々な根を、私共が大事にさせて頂くと言う所からです。益々、いわゆる、三益愛子のおかげを受けられるような、ね。一つ、信心を頂かなければならんと言うのです。ね。
只今、御祈念中に、先生方が、神饌を、手から手にこう移ってまいります時に、私は、こう、瞑目しながら御祈念しとったら、御神願を頂いた。ある方が、お神酒を、盃に注いでおられる。ところがその、お盃が、その、越してから、がばがばっとこぼれた。下には、見事な絨緞が敷いてあった。だから、絨緞がその、有難い、勿体ないを、ちゃんと吸い込んで、ちゃんとちが、吸い込んでしもうた。いや、けれども、私は、ちゃんと、言わにゃおられんとですよ、実施は。ね。私共がです、例えばね、無駄な所に金を使うという事はです。それこそ、その素晴らしい絨緞に、ちゃんと、それこそ、シミが付いてしまうようなものですから。私は、その事を考えた。そして、今日の御理解です。ね。だから、世の中には、それこそ、どのような贅沢なものでも、あるわけです。例えば、着物が、何十万もするという様な着物があると。それが、着てならんというのじゃない。ね。自分のね、自分の、それが、言うならば、徳に応じたと言うか、ね。無理のないと言うか、ね。言うならば、自分が百万の給料を取っておるとするならばです。なるほど、月に三十万使うても、それはかんまん。けれども、一万の給料しか取りよらん者がです。ほんなら、一万円使うと言うと、どういう事になるか。ね。そら、いっちょん残らん。ね。だから、そういうとこに、ほんなら、一万円しか取らん者が、一万五千円使うような事になっては、。借金してからでん、ものば買おうと言った様な事がです。いかに、これは、天地を肥やすのではなくてです。天地に、しみを付ける様な事になるという事を、今日は一つ、知っていただきたいと思うですね。
天地の、いわゆる、ねを肥やすと言うのでは無くてです。根を反対に、いうならば、ね。不毛の地にしてしまうと言った様なものがありますよ。ね。そこに、芽が出よってもです。それを、枯らしてしまうと言ったような働きになりますから、ちゃんと、こぼしてしまうという事になる訳です。ね。粗末な事がない。そこんところに、私共は、やはり、今朝から頂きますように、ね。最後に、三宝様を踏むな。三宝様を踏むと目がつぶれると言うことを頂いた。穀物を大事にするという事は、ね。命の根であるから、穀物を大事にするんだと。ね。同時に、ほんなら、三宝様に、より匹敵するものは、私共の心を、いよいよ、豊かにして下さろうとする働きです。いわゆる、御事柄をです、お粗末にするという事は、これは、目がつぶれる段のことじゃない。いよいよ、マイナスになってくるという事。ね。そして、最後には、ね。信心の油断をすな。慢心が出ると、おかげを取り外すぞという事で締めてあります。今朝の御理解は。ね。だから、私共がです、ね。大抵に心掛けておきませんと、自分の身分不相応な生活をしたり、ね。ものを、いわば、買ったりするという事は、それこそ、その絨緞に、ちゃんと吸い込んでしまうことになる。見事な、言うなら、天地を、言うならば、反対に穢すことになる。心掛けねばならない事だと思います。
何十年信心を、例えば、させて頂いておりましても、ね。信心が、私は、分かっただけで、身に付いて行かない。それを行じない。今日、私、ここで座っておるときに頂いた事ですけれど、一番始末に悪いのはね。もう、何でん知っとると言うとが、一番始末が悪いという意味の事を、そこで使うたことがありますけれどね。という事を言った。あぁ、そげな事なら知っとる。もう、これにはね、教えようが無いと仰る。もう、私は、知っとると言うのである。ね。そら、どれだけ、知っとるかも知れません。けれども、今朝の御理解に頂くように、慢心が出らん事の為に、何時も、ね。しじゅう五節と頂いた。今日の御理解は四十五節。始終という事は、何時もという事。五節という事は、ちょうど、真ん中という事。それを、教祖の神様は、今中という気で信心せよと仰る。どんなに、おかげを頂いておっても、まぁだ、今中だと思うから、慢心の出ようがない。いつもその姿勢である。まぁだ、頂かなければならん。だから、このくらいな修行は、また、有難いという事になってくるのです。ね。いわゆる、四十五節という事は、今中という事だ。ね。いつも、今が真ん中という気持ちでおれば、いわゆる、慢心の起こりようがないとこう、ね。慢心を起こして、おかげを取り外すような事があってはならない。まぁだ、取り外すもなんも、まぁだ、いただいとらん人も多いのですからね。取り外すものは持っておらん。ですから、それを頂くために、いよいよです、今日、私が申しました、ね。今月の、まぁ、焦点になるでありましょう。おかげの泉の中に出てくる、ね。根を大切にするという事をです。色々な角度から、はぁ、これが根であろう。その例えば、三つ、または、今日は、四つ申しましたが、ね。これだけはもう、絶対の根であるから、この根を大事にするという事を聞いていただいた。同時に、一番最後に、ね。根を大事にするのではなくて、根を枯らかす様な事、ね。例えば、良い着物を着たために、威張る心が起こったとしてごらんなさい。それこそ、今朝からの御理解で頂くと、あの人は、どうも、つんとしてござるという事になるのです。ね。そら、自分が楽しいだけであって、人に喪、見せびらかそうと言う気持ちがある。ね。それが、自分の身に付いたものならね、良いです。ね。そういうところをです、ね。例えば、根を肥やすだけでなくて、根を枯らす様な事があってはならんと、例えば、今月は、大いに、そこの所に、焦点を置いて、ね。研修していかなければならない。そこに焦点を置いて、信心の稽古をさせて頂かなければならないと思うのでございます。どうぞ、いよいよ、根を大事にする。こらまぁ、根は、色々ありましょう。ね。小さい根も、沢山あるのですから。けれども、この、今日言うた、三つ、四つの事は、こらもう、絶対の根ですから、ね。本当に、私共の、例えば、真心からの、お供えといった様なものがです。本当に、真心からのものであって、天地に還元しておると感じれれるような、手応えのあるような、私は、還元で無からなければならないと思うのです。ね。心。そして、親、先祖、そして、食物、ね。そういうものが身に付いて来る時ですね。なるほど、金光様のご信心振りというものは、ちゃんとこう、匂うように付いてくるものだと思うですね。どうぞ。